「生きているのに、疲れた。」

去年の夏だった。

朝の天気予報曰く、最高気温は36度らしい。

かげろう漂う真夏のアスファルトの上、真っ白な光が降り注ぐ。

汗がわき腹をつたう感触がある。

尻のポケットに入れたケータイが熱い。

ゆるくつけた腕時計が手首で遊んでいるのもわかる。

風が正面から吹いている。

長めの前髪が額に張り付く。

今、真横を自転車が通り過ぎていった。

錆び付いた音がした。

久しく聞いていない自転車のベルの音が聞こえたのは、私が目をつむって歩いているからだろうか。

今日は、無駄に感覚が冴え渡っている。

しかし、一つだけ分からないことがある。

さっきから頬をつたっている温かなものは、汗であろうか。それとも、涙であろうか。

先月、母親が事故に遭った。

一命はとりとめたものの、というやつだ。

医者は大丈夫だと言う。

しかし、まだ面会は許してもらえていない。

それが何を意味するのか、察するには十分大人だ。

私の中で母親の時間は先月で止まったままだ。

そして今朝、祖母が他界した。急死だった。

理由は詳しく聞く気にもなれなかった。

もはや理由などどうでもいい。

その事実だけで、心が壊れるには十分だ。

私の中で祖母の時間は永遠に止まった。

もう、悲しむのに疲れた。

「生きているのに、疲れた。」

生きていなければ、苦しまずに済むのに。

小説やドラマの中だけだと思っていたセリフを、私は現実世界でつぶやいた。

こんな悲しい世界なら、いっそなかったことにしたほうがましだ。

もう、疲れた、と。

何か悲しいことが、辛いことがあった時、人は自分が世界の苦しみの全てを背負っているように感じる。

そしてその時の自分にとっては、それが真実である。

世界の苦しみの全てを背負っていると思わなくてはやってられない。

自分を悲劇のヒロインに仕立て上げるしか、苦しみを受け止める方法がないのだ。

あの日の私もまさにその状態であった。

これは、「解釈力」だと思う。

自分は悲劇のヒロインであると「解釈」する。

苦しい現実をそういう風に「解釈」することで何とかやり過ごすのだ。

現実は「解釈」一つで変わる。

そして過去すらも「解釈」一つで変わる。

苦しかった過去も、今の自分が満たされていれば人生の糧ととらえることができる。

対して、苦しい過去をとらえ方次第で肥大させてしまうこともあるのだ。

人は誰も、経験をありのままに語ることはできない。

カメラが現実の一部分しか切り取れないのと同じように。

そう考えると、明確な意味での過去など存在しないのかもしれない。

これまで生きてきた時間も、これからの人生も、全てはたった今生きている自分に帰結するからだ。

母親の事故も、祖母の他界も、いつか薄れていってしまいそうで怖い。

絶対的に悲しいとされている出来事さえも、自分の「解釈」で変わってしまう。

冷たい人間にも、温かい人間にも、さじ加減一つで変わることができる。

人間の薄情さを感じる一方で、真理であるようにも感じた。

あれから半年たった今、私は一つの考えに至った。

忘れる、という行為は「解釈」と紙一重なのではないだろうか。

過去の出来事を昇華しきって、今の自分に必要のない出来事だと判断した時、私たちはそれを「いらないもの」として解釈する。

そしてそれこそ真に、自分の糧になったと言える状態であり、

過去を乗り越えて成長できたということなのではなかろうか。

私はあの日、確かに泣いていた。頬をつたった温かいものは、涙であった。

半年も前のことなのに、あの日の情景、気持ち、すべてを鮮明に思い出せる。

つまり、私はあの日をまだ、乗り越えられていないのだ。

強くなりたい。

そして、願っている。

あの日流した涙をいつか、人生の糧だと「解釈」することができますように、と。

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